第一回 「詩人とは何か」

 もう10年も昔の話になるけれど、詩集の即売会や朗読会に顔を出しはじめた頃のことだ。そうした場で、初めて会う人と話をするときにはいつも、「あなたも詩人ですか?」とまず聞かれた。そこにいる人たちはほとんどが自分で詩を書き、詩集や同人誌の出版をしているのだから、そう聞くことは当然のことだったのだけれど、僕はいつも答えに困った。どう答えたものか迷ったあげくに、「僕は詩人未満です」みたいな意味のことを言った。自意識過剰ぎみの僕の答えに、相手も困ったことだろうと今は思う。

 本当は、その頃にはすでに詩を書いてはいたし、「詩を書く=詩人」ということなら、確かに詩人と名乗ってもよかったのだ。でも僕にはそれがためらわれた。詩集や同人誌を作っていなかったからだろうか。詩誌の投稿欄に入選していなかったからだろうか。たぶん、そういうことではなかった。僕が詩人を名乗るには、別の何かが欠けていると漠然と考えていた。僕にとって、ただ詩を書いているだけでは、詩人とは言えなかったのだ。


詩人ケン (幻冬舎文庫)

詩人ケン (幻冬舎文庫)

「詩人ケン」業田良家幻冬舎文庫)絶版

 僕が詩人として欠けていると考えていたものの、ひとつの手がかりがこの漫画にはある。この作品は「詩人とは何か」という問いを、物語の基本に据えているからだ。

 妻子持ちの詩人ケンは定職もなく貧乏暮らしで、とつぜん放浪の旅に出ようとしたり、右翼の街宣車に文句をつけたり、人殺しの片棒を担いだり、さまざまな人と交流?をしながら詩をつくっている。話が後半になるとケンはまともな仕事を探しはじめ、最終的にラーメン屋の店主になるのだけれど、この物語が「非常識な若者が葛藤のすえ真面目な社会人になること」を主なテーマにしているわけではない。ケンが放浪の旅に出たまま野垂れ死ぬことも、あるいは反対に島耕作ばりのサクセスライフを送ることも、同じだけあり得ることだった。ただ実際のケンが案外平凡な生活過程を歩んだことは、人生の見かけが平凡であろうと非凡であろうと、詩人であることにとっては何の違いもないことをむしろ意味している。


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 では、この作品は詩人ケンの描き方を通して、つまり詩人とはどのようなものだと語っているのだろうか。ここでは、僕が感じた3つの事柄を挙げたい。

1 詩人は弱さを見据える

 第一話で、いきなりケンは何のあてもなく、妻子を残して旅に出る。すると途中で腹が減ってきて、食堂でカツ丼を食うのだが、金がない。結局、妻のルルに金を持ってきてもらう。第二話では、思わず右翼の街宣車に文句をつけるのだが、喧嘩をはじめるわけでもなくすぐに逃げてしまう。ケンは切迫した場面ではたいてい冷や汗をかいていて、けして強靱な精神や肉体を持ったヒーローなんかではない。ケンはおそらく強くあろうとしているし、それは実際に行動としても表われるのだけれど、物語はつねにその強さのあとに同じだけ弱さについても描く。

 詩人にとって、弱さを持つのは大切なことだ。政治家の言葉やビジネスの言葉は、それがいかに強いかを語らなければならないが、現代の詩の言葉は、そんな強い言葉からはこぼれ落ちてしまう弱さを見据えることから、まずは始まると言っていい。


2 詩人はどこまでも言葉を疑う

 詩人ケンは自由について、愛について、あるいは平和について、いつも考えている。ケンにとって「考える」というのは、疑うということでもある。自由について考えるとき、自由を疑っている。
 愛について考えるとき、愛を疑っている(詩人は哲学者ほども言葉を信じない、って誰かの言葉があった)。哲学者や科学者のようには、言葉で世界を定義しようとはしない。疑りぶかい詩人の言葉は、だからほとんどが比喩でできているのだ。
 ちなみに、詩を読んでみても意味がわからなかったり、わかりやすい詩でもそれを別の言葉で言い換えることができなかったりするのは、すべての詩が比喩でできているからだ(たとえひとつも比喩表現がなくても!)。少しわかりにくいけれど、詩の言葉はいつも、その言葉の意味だけを意味しているのではない。よい詩の多くは、その言葉の意味を借りながら、別の意味について語ろうとしているはずだ。


3 詩人は詩を書くことにこだわる

 ケンが人殺しの片棒を担ぎ、右翼の大物に拳銃を借りにいく場面がある。そんな危ない話になぜ乗るのかと問われて、ケンは「詩が書きたいから」と答える。つまり、単なる正義や恩義のために、あるいは利益のために行動を起こしたわけではなく、最終的にはすべて詩を書くためなのだ。イペリットガスのミサイルが落とされて危険な街に、ケンがわざわざ向かうのも、それを詩にしたいという思いからだった。
 もちろん音楽家は音楽をつくることにこだわるし、画家は絵を描くことにこだわる。ただ、詩人特有の事情があるとすれば、詩人がこだわる言葉というものが、生きることとあまりにも密接でありすぎるということだ。自分や、世の中や他人が、どのようなものであるかを決めるのも言葉であり、つまり世界は言葉で出来ている。ある知り合いの詩人は「詩人に失敗なし」と言ったが、それはどんな失敗であっても言葉と関わっているのであり、詩を書く上では何ら障害にはならないということだろう。


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 詩人ケンの外見はむしろロックミュージシャンだし、典型的なアウトローとして描かれているが、それは極端に言えば単なる漫画的な誇張表現にすぎない。詩人であることというのは、先に挙げた3つの事柄のようなものの中にあり、それを効果的に描くために選ばれた人物像がケンなのだ。だから当然のことながら、あらゆる詩人は外見的に、あるいは社会的にアウトローである必要もないし(もちろん、ない必要もない)、詩集が売れる必要もなければ、賞を獲る必要も、本質的にはない。

 さて、この「詩人ケン」の物語を踏まえれば、昔の僕が自分を「詩人未満」だと考えていた理由は、それなりに言うことができる。それは詩の上手さでも活動実績でもなく、詩への姿勢なのだった。弱さを見据え、言葉を疑い、そして何よりも、詩を書くことにこだわるという姿勢。そうしたものが何もなく、ただ思いついたことを書いているだけでは、自分が詩を書いているという実感はあまり湧いてはこなかったのだ。(一言そえておくべきだと思うけれど、そうした姿勢の有無によって、詩作品が評価されるわけではない。それは全く別のことだ。ただ、詩人として生きるとするなら、そこには姿勢というものが関わってくるのだろう)
 もちろん僕は、詩人の条件はその3つだと言いたいのではないし、それは詩人ケンを読んで感じた、とりあえずのものでしかない。けれども、「詩人ケン」の描く詩人像が持つ説得力を僕は信じていて、「詩人とは何か」と誰かに問われたとき、詩人の伝記や入門書のかわりに「詩人ケン」を差し出すというのは、それほど的はずれなことではないと考えている。