焼かれながらも人は、そこに希望があればついてくる*1
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私の妻はとても醜い。
どう醜いのか、それを上手く話すことはできないのだが、醜いと思わずにはいられない。そのことが私には辛い。
だから妻の醜さを、私は誰かに、下手なりに話さなくてはいけないのだと思う。
けれど話す相手などこれといっていないから、せめて拙くとも書きとめておきたいと願い、こうして書きはじめるものである。
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妻は、私に対していつも従順な態度で、向こうから喋りかけてくることといえば、夕飯は何が良いかだの、今日はもう寝るかだの、こちらを窺う言葉ばかりである。それがひどく醜い。
かつてはそれなりに熱中した色々な博打も、この妻と同棲するようになってからはほとんど興味を失ってしまった。
出かけようと支度をしていても、玄関で靴を履いている頃には何だか萎えてしまう。知らず知らずのうちに、外へ向かおうとする熱を根こそぎ奪われてしまうのだ。
醜い人間は、たとえ何もせずに静かに佇んでいても、その存在が剛力である。私のような脆弱者のふらついた心根などはすぐに握り潰し、凍らせてしまうのだ。
元々、勝っても負けてもどうでも良い博打であったのは事実だ。たしかに勝ちの先にはささやかな利益があり、負けの先にはおぼろげな破滅が見え隠れしている。けれど博打を打ちながらも私は、利益にも破滅にもそれほど興味がなかった。
勝っていつもより美味い酒を飲めば気分の良いような気もするし、負けてひもじい思いをすれば悔しいような気もする。しかしそれは本当にそう思っているというより、勝者とはそういうもの、敗者とはそういうものというふうに、照れ笑いを浮かべながら役を演じているような感覚でしかなかった。
つまり私は臆病だったのだ。
生来の自分というもの、そこから自然に湧きあがる感情を、自身に対しても他者に対しても堂々と示すことは恐ろしかった。
それは幼少時代からずっと代謝を繰り返して、心細胞のどの一片にもきちんと織り込まれた私の性質であって、体を丸ごと取りかえでもしなければ、決して覆らないものだったのだ。
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同棲して二年目の春、私が板場と呼ばれる大きな賭場に出向いた時にも、妻は引き止めもせず、ただ「いってらっしゃい」と言って私を見送ったのだった。
この時賭けていたのは、妻と私の命だった。
(2)へ続く