詩「凪」

妻は蛸だった
何処まで入っていっても蛸だったのでつめたく
人肌とは相容れることのない柔らかさをして
いつもその正体が蛸であることを
忘れさせまいとしていた

時化がくると妻は蒲団の下で騒ぐ
身がさんざめくため仕方のないことで免じて欲しいと
まなこで訴えかけながら
散々に動く
良人(おっと)は遠く北国の時化というものを想像している

凪ぎがくると蛸は彼の下でゆっくりぬめる
体液が沈黙するため仕方のないことで免じて欲しいと
手足で訴えかけながら
しずしずと広がる
良人はそっと砂を集めてくる
妻のうえにさらさらとかけてやる

夕餉の刻
妻はとんとんと包丁を鳴らし
良人は今夜は遅いのですわと
入り江の満ち潮に落ちてゆく月を相手に
世間の話を片付ける

今夜も遅いのですわ
明日もきっと遅いことでしょう
帰らぬ良人に訴える
あなた汐水が欲しい
あなた汐が満たない
一緒に壺中天にゆこうと申したではないですか

良人はきっと帰ってこない
妻は砂と海の下に沈んで嘆く

あなた
一緒に壺中天にゆこうと申したではないですか

良人は戻ると
妻の居ない家で
置き手紙をみつけ
家中の蛸壺を裏返し
狂ったように叩き割る
どの壷も生霊に満ち溢れ
火焔が立ち上っては夫婦の
日々や笑顔や愛を焼き滅ぼす
ここで時化と凪ぎが入れ替わる

夕餉の刻
妻はとんとんと包丁を鳴らし
良人は今夜は遅いのですわと
入り江の満ち潮に落ちてゆく月を相手に
世間の話を片付ける

今夜も遅いのですわ
明日もきっと遅いことでしょう