第一回 「詩人とは何か」

 もう10年も昔の話になるけれど、詩集の即売会や朗読会に顔を出しはじめた頃のことだ。そうした場で、初めて会う人と話をするときにはいつも、「あなたも詩人ですか?」とまず聞かれた。そこにいる人たちはほとんどが自分で詩を書き、詩集や同人誌の出版をしているのだから、そう聞くことは当然のことだったのだけれど、僕はいつも答えに困った。どう答えたものか迷ったあげくに、「僕は詩人未満です」みたいな意味のことを言った。自意識過剰ぎみの僕の答えに、相手も困ったことだろうと今は思う。

 本当は、その頃にはすでに詩を書いてはいたし、「詩を書く=詩人」ということなら、確かに詩人と名乗ってもよかったのだ。でも僕にはそれがためらわれた。詩集や同人誌を作っていなかったからだろうか。詩誌の投稿欄に入選していなかったからだろうか。たぶん、そういうことではなかった。僕が詩人を名乗るには、別の何かが欠けていると漠然と考えていた。僕にとって、ただ詩を書いているだけでは、詩人とは言えなかったのだ。


詩人ケン (幻冬舎文庫)

詩人ケン (幻冬舎文庫)

「詩人ケン」業田良家幻冬舎文庫)絶版

 僕が詩人として欠けていると考えていたものの、ひとつの手がかりがこの漫画にはある。この作品は「詩人とは何か」という問いを、物語の基本に据えているからだ。

 妻子持ちの詩人ケンは定職もなく貧乏暮らしで、とつぜん放浪の旅に出ようとしたり、右翼の街宣車に文句をつけたり、人殺しの片棒を担いだり、さまざまな人と交流?をしながら詩をつくっている。話が後半になるとケンはまともな仕事を探しはじめ、最終的にラーメン屋の店主になるのだけれど、この物語が「非常識な若者が葛藤のすえ真面目な社会人になること」を主なテーマにしているわけではない。ケンが放浪の旅に出たまま野垂れ死ぬことも、あるいは反対に島耕作ばりのサクセスライフを送ることも、同じだけあり得ることだった。ただ実際のケンが案外平凡な生活過程を歩んだことは、人生の見かけが平凡であろうと非凡であろうと、詩人であることにとっては何の違いもないことをむしろ意味している。


×

 では、この作品は詩人ケンの描き方を通して、つまり詩人とはどのようなものだと語っているのだろうか。ここでは、僕が感じた3つの事柄を挙げたい。

1 詩人は弱さを見据える

 第一話で、いきなりケンは何のあてもなく、妻子を残して旅に出る。すると途中で腹が減ってきて、食堂でカツ丼を食うのだが、金がない。結局、妻のルルに金を持ってきてもらう。第二話では、思わず右翼の街宣車に文句をつけるのだが、喧嘩をはじめるわけでもなくすぐに逃げてしまう。ケンは切迫した場面ではたいてい冷や汗をかいていて、けして強靱な精神や肉体を持ったヒーローなんかではない。ケンはおそらく強くあろうとしているし、それは実際に行動としても表われるのだけれど、物語はつねにその強さのあとに同じだけ弱さについても描く。

 詩人にとって、弱さを持つのは大切なことだ。政治家の言葉やビジネスの言葉は、それがいかに強いかを語らなければならないが、現代の詩の言葉は、そんな強い言葉からはこぼれ落ちてしまう弱さを見据えることから、まずは始まると言っていい。


2 詩人はどこまでも言葉を疑う

 詩人ケンは自由について、愛について、あるいは平和について、いつも考えている。ケンにとって「考える」というのは、疑うということでもある。自由について考えるとき、自由を疑っている。
 愛について考えるとき、愛を疑っている(詩人は哲学者ほども言葉を信じない、って誰かの言葉があった)。哲学者や科学者のようには、言葉で世界を定義しようとはしない。疑りぶかい詩人の言葉は、だからほとんどが比喩でできているのだ。
 ちなみに、詩を読んでみても意味がわからなかったり、わかりやすい詩でもそれを別の言葉で言い換えることができなかったりするのは、すべての詩が比喩でできているからだ(たとえひとつも比喩表現がなくても!)。少しわかりにくいけれど、詩の言葉はいつも、その言葉の意味だけを意味しているのではない。よい詩の多くは、その言葉の意味を借りながら、別の意味について語ろうとしているはずだ。


3 詩人は詩を書くことにこだわる

 ケンが人殺しの片棒を担ぎ、右翼の大物に拳銃を借りにいく場面がある。そんな危ない話になぜ乗るのかと問われて、ケンは「詩が書きたいから」と答える。つまり、単なる正義や恩義のために、あるいは利益のために行動を起こしたわけではなく、最終的にはすべて詩を書くためなのだ。イペリットガスのミサイルが落とされて危険な街に、ケンがわざわざ向かうのも、それを詩にしたいという思いからだった。
 もちろん音楽家は音楽をつくることにこだわるし、画家は絵を描くことにこだわる。ただ、詩人特有の事情があるとすれば、詩人がこだわる言葉というものが、生きることとあまりにも密接でありすぎるということだ。自分や、世の中や他人が、どのようなものであるかを決めるのも言葉であり、つまり世界は言葉で出来ている。ある知り合いの詩人は「詩人に失敗なし」と言ったが、それはどんな失敗であっても言葉と関わっているのであり、詩を書く上では何ら障害にはならないということだろう。


×

 詩人ケンの外見はむしろロックミュージシャンだし、典型的なアウトローとして描かれているが、それは極端に言えば単なる漫画的な誇張表現にすぎない。詩人であることというのは、先に挙げた3つの事柄のようなものの中にあり、それを効果的に描くために選ばれた人物像がケンなのだ。だから当然のことながら、あらゆる詩人は外見的に、あるいは社会的にアウトローである必要もないし(もちろん、ない必要もない)、詩集が売れる必要もなければ、賞を獲る必要も、本質的にはない。

 さて、この「詩人ケン」の物語を踏まえれば、昔の僕が自分を「詩人未満」だと考えていた理由は、それなりに言うことができる。それは詩の上手さでも活動実績でもなく、詩への姿勢なのだった。弱さを見据え、言葉を疑い、そして何よりも、詩を書くことにこだわるという姿勢。そうしたものが何もなく、ただ思いついたことを書いているだけでは、自分が詩を書いているという実感はあまり湧いてはこなかったのだ。(一言そえておくべきだと思うけれど、そうした姿勢の有無によって、詩作品が評価されるわけではない。それは全く別のことだ。ただ、詩人として生きるとするなら、そこには姿勢というものが関わってくるのだろう)
 もちろん僕は、詩人の条件はその3つだと言いたいのではないし、それは詩人ケンを読んで感じた、とりあえずのものでしかない。けれども、「詩人ケン」の描く詩人像が持つ説得力を僕は信じていて、「詩人とは何か」と誰かに問われたとき、詩人の伝記や入門書のかわりに「詩人ケン」を差し出すというのは、それほど的はずれなことではないと考えている。


「Ps & Qs」最近の動き

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「妻へ(2)」


死ねば助かるのに・・*1


──

 妻の体が私になって、私の体が妻の体になれば良い。そうなふうに思ったことは幾度もある。

 妻の肢体を出刃包丁で切り刻み、茹でたり焼いたりするたびに、そんな目に合うのが私であればどれだけ良いだろうと。

  *

 しかし臆病な私に今できることといえば、闇雲なギャンブルくらいのものだ。勝ちを望まず、かといって負けを望むこともなく、ただ機械のように目の前の仕事をこなす。計算機が計算をするように、勝ちの芽吹きを感じ、それを摘み取り、誰にも渡さないようにポケットにしまって、妻の待つ代わり映えのしない家に帰る。それが私の生活のほとんどすべてになった。

 そんなギャンブルが面白いはずもない。しかし、一人で外をぶらついていても、家で妻と懇ろになっていても、それは同じことだ。
ただ目の前の出来事を見て、感じ、最良を模索し、そこに至る道をぽつねんと歩く。
博打を打ち始めた頃は、勝つことが最良だった。いや、無理にでもそう思っていたので、勝ちを目指せば良かった。やがてそれに飽きると負けを目指すようになり、負けが最良になった。もちろん、上手く勝てない時もあるし、上手く負けられないこともあったが、概ねは思った通りにことが進んだ。
 そして今は勝ちを目指すのではなく、負けを目指すのでもなく、何が最良なのか分からないままに、それを闇雲に探す。
結局、同じことなのだ。ただ私にとっての最良が、以前よりもっと訳の分からない、ぐねぐねとした抽象的なものになっただけのことである。

  *

 何故あんな妻を娶ったのかと人から問われることはよくあった。「何故あんな醜い妻と」いや、そんな言い方ではなかった。もっと直接的に「何故あんな醜いものと」、あるいは「何故そんなことをするのか」と。
人々は私を狂人を見るような目で見遣ってはいずれも去っていった。しかし私は狂人ではない。若い頃と何も変わりない。ただの凡夫である。

 人はいつも心地よいものを求めているわけではない。醜いものや、嫌な気持ちを求めることもある。そしてそのどちらも求めることができなくて、何を求めたら良いのか、その答えを求めることもある。
 だから私はこの妻を今日も、「ああ、醜い」と思い、その思いに何の感慨も抱けないままに、それでもこの生活を続けていくしかないのだ。

 なにしろ人々は皆私の傍を去っていってしまったので、もうこの生活を語る相手はいない。
 だから私は一人無言のままで、グロテスクな妻の体を愛でる。時には嗅ぎ、刺し、刻む。
 仕方ない。かつて私が唯一自分の命を賭けた時、私はその賭けに勝ち、同時に私は私に敗れた。私は私の命を守り、妻の命を失った。
 それ以来、まだ二度目が訪れることはないのだから。


*1: 福本伸行『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』より

 詩「凪」

妻は蛸だった
何処まで入っていっても蛸だったのでつめたく
人肌とは相容れることのない柔らかさをして
いつもその正体が蛸であることを
忘れさせまいとしていた

時化がくると妻は蒲団の下で騒ぐ
身がさんざめくため仕方のないことで免じて欲しいと
まなこで訴えかけながら
散々に動く
良人(おっと)は遠く北国の時化というものを想像している

凪ぎがくると蛸は彼の下でゆっくりぬめる
体液が沈黙するため仕方のないことで免じて欲しいと
手足で訴えかけながら
しずしずと広がる
良人はそっと砂を集めてくる
妻のうえにさらさらとかけてやる

夕餉の刻
妻はとんとんと包丁を鳴らし
良人は今夜は遅いのですわと
入り江の満ち潮に落ちてゆく月を相手に
世間の話を片付ける

今夜も遅いのですわ
明日もきっと遅いことでしょう
帰らぬ良人に訴える
あなた汐水が欲しい
あなた汐が満たない
一緒に壺中天にゆこうと申したではないですか

良人はきっと帰ってこない
妻は砂と海の下に沈んで嘆く

あなた
一緒に壺中天にゆこうと申したではないですか

良人は戻ると
妻の居ない家で
置き手紙をみつけ
家中の蛸壺を裏返し
狂ったように叩き割る
どの壷も生霊に満ち溢れ
火焔が立ち上っては夫婦の
日々や笑顔や愛を焼き滅ぼす
ここで時化と凪ぎが入れ替わる

夕餉の刻
妻はとんとんと包丁を鳴らし
良人は今夜は遅いのですわと
入り江の満ち潮に落ちてゆく月を相手に
世間の話を片付ける

今夜も遅いのですわ
明日もきっと遅いことでしょう

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投稿詩 on PQs!は全7ラウンドすべてを消化して終わりました
各回の平均獲得点数を競った結果、上位5位までの入賞は以下の5名の方となりました
蛾兆ボルカ にゃんしー モリマサ公 5or6 田村飛鳥(敬称略)
皆様ありがとうございました
(入賞された方には順次個別にメールをお送りしています・暫しお待ち下さい)


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そして詩誌発行まで3ヶ月を切ったカウントダウンです編集長! 頑張れ。

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Quiginu#7正午

美術館 或いは、路上での出来事


それはとても透明だから最初はそうとは気が付かないけれど
本当はとても分厚くて幾度も高熱によって捻まがったもので
あの男は何も知らずにそれをウィンドウに取り付けているが
本当はその硝子を嵌め込んだら最後その建物には出口が無い
なかにいる彼女はもう外に出られないしやがて息も出来ない
息も出来ないようになるだろう僕は何も遠くからずっと見て
彼女が無表情で壁にもたれた人形のような造作の彼女の顔が
何も変化を起こさないこととそこで行われている一連の作業
永久というものを胸苦しく連想させるその工事にぞっとして
なかにひとがいるんだ!お前!閉じ込められているんだ!と
叫んだのだけれど工事の男の眼には閉じ込められゆく彼女が
見えない見えないんだ何も見えないのは彼の眼なのか或いは
僕の眼が病んでいるのかだって頬骨の上を淡くオレンジ色に
染めた化粧でカールさせた髪と伏せた瞼の青色と薔薇色の唇
壁にもたれて外を見ている細くて長い睫毛まで僕には見える
僕は本当は叫んでいないのか知らせたつもりになって本当は
路上で大声をあげることすら出来ない愚者である弱いのだと
思い知ったつもりでも違う今必要なのはそんなことじゃない


「あの建物は何の建物なんですかまだ工事中みたいだけど」
「美術館ができるのよ外側もそんな感じでしょう芸術的で」


通りすがりの女性と平穏に会話をしている自分に吐き気がする
ばかげた言葉だ芸術的だなんて最高に意味がない言葉のひとつだ
だいいち下品だここらの世間には反吐が出る心情もない志しもない
本当は閉じ込められていくのはあの工事の男とこの馬鹿な女性と僕で
僕と路上にいる多くの人々が皆あのぶ厚い捻まがった邪悪なガラス板で
彼女の立つ場所から遮断されていくんだあの白くて清廉な世界に入れずに


炎天下


それは路上での出来事


もうすぐ正午だ


僕が空に順番に浮かべていく妄想を彼女は知っているだろう
という妄想を工事の男は知っているだろうしそして何もかも
あの女性に知られているということを全部僕は心得ていてる
境界が失われていく違う境界は失われるもののうちのひとつ
と云う方が正確だ多くのものが失われていく損なわれていく


路面電車がやってくるから行かなくちゃ汗ばんだ右手の中に切符があるから
彼女は相変わらず涼やかに閉じ込められてゆく男も汗を拭いて作業を続ける
道を行く人々の誰も工事中の建物なんか見ない見る価値がない見る暇もない
違うそんなことを云いたいんじゃない思いたいんじゃない考えるんじゃない
ただまだ何処にも行けない動けない逃げだせない消えられない誰も殺せない


だから


僕はここにいる


白くなってゆく視界


すべての変化が悪い方に起こると云うのは錯覚だ
もしそう感じられるならそれは変化する前から侵されていたのだ


青い空あおいそら路上での出来事
捻まがったガラス捻くれ曲がった硝子ぶ厚いぶ厚い硝子あつい暑い正午前



page.05〜#fffff9さま〜

#fffff9さま


 チェコです。たいへんに遅くなってしまいました。桜のお話をしていたのに、もう七月の終わりが近いです。

 自然のことについて。たいへんに考え込んでしまいました。自然とは何を表せばよいのでしょう。
 チェコは、自然を観にいくということが理解出来ません。たとえば時々山で遭難する痛ましい事件がありますが、何故山に登るのか、チェコはいつも憤慨致します。チェコの(余談ですが、大嫌いな、)知り合いが、自然に対峙して畏れと己の小ささを知ることは素晴らしいだとかなんとかいつまでも云っていました。そのひとは山岳部の出身者なのですが、この自分の住んでいる土地から遠く山の頂きを眺めるだけでは何にもわからないばかなのではないかと、チェコは今でもぶつぶつと不満に思います。山に登りに行ったり、アメリカの岩場だとかエジプトの砂漠だとか、サバンナだとか北極だとか、そういうものにはチェコはちっとも興味がございません。

 でもチェコだって自然という言葉に慎重なだけであって、色々なものが好きです。そして、畏れも感じます。
 一番にそれを感じるのは、空です。もう夏空となって、晴れた日にかおをあげると軽いめまいが致します。夏の空は水平線では銀青に融けていっているのではないかと思うほど、とろとろとなめらかにそれでいて軽々と、雲を孕んで浮かんでいます。空が青いのは光の色の波長の関係だと女学校で倣いましたが、一体、もしも空色を青にしようと定めた神様がいらっしゃるのなら、やっぱりそれは誰も太刀打ち出来ない方なのだろうかと思います。

 空は青いという単純な話ではなく、空はいつまで経っても存在するだろうということが、チェコにとって自然の強く畏れるべき在り方を実感させます。少しお話が飛びますが、チェコは時々戦争の頃の空についてもの想うのです。家が燃えてひとがいっぱい亡くなって木々が倒れたそのときも、やっぱりあの空はあんな風に佇んでいたのでしょうか。空襲で街並がすべて壊れたとき、悲しみと痛みに打ちひしがれながらひとは、空を見上げたのではないでしょうか。遠い外国の島に出征した兵士もやはり、空をふと見上げたと思うのです。戦争の話はつらいけれど、チェコはだんだん六十何年前に時をぐるぐると遡り、かの時代と空を共有出来るような錯覚がするのです。これが、チェコの思う自然についてのお話でした。

 #fffff9さま、チェコはまたおねだりがしたいです。もう、夏になってしまいましたので、夏のたべものについて聴かせて下さいな。夏のたべものを、チェコは、知りたいのです。お料理でもいいです。夏のお料理ってなんだか特別になる予感が致します。

 お元気でいて下さいね。
                        草々 チェコ

Quiginu#6聞き違い

青いものが見えるの/彼女は云った/遠くを見ながら
神経が脆弱であることは/人間として劣っていますか/もっとあからさまに問うと/それは罪ですか
目の前に広がる景色の向こうに/青いものが見えるの


ヴァイオリンの音色が聞こえる
all the lonely people
no one was saved

I heard someone singing.

トラディショナルでアンコンディショナルなロジカルを駆使するあいつはいつもメカニカルでラヴ×セックスは愛のかたちじゃないっていう証明は出来る? ねえ、アイロニカル、シニカルに、出来る?
ラディカルなんて、
うそっぱち、
あなたはやっぱり嬉々として聞き違いに耳を澄ませる偽キチガイだった

白いリアル

しかばねいろのはなが
ろっこつのすきまからさいた
いきをふさぐように
ゆめからさめたあたしは
めにうつるすべてをほうきして
にぶったきょうきにとりみだす
のきしたからあふれるのは
まじりけなしのしろいほね
れもんをしぼってかじってみれば
るるら また はながさく

夢日記19

「わたしを壊せ」/というぼろぼろの犬の声が/山から地上へと/わたしへと/一直線に吹き下りてくるとき/幻の山道をのぼっていく/愛のような/みずみずしい敵意の切っ先に出会うために
     (小池昌代「敵意」より)

 辺りは夜で、細い石畳の道にはぽつぽつと屋台が出ていて、わた飴やたこ焼きを売っている。お祭りの雰囲気。人はまばらにしかしない。あまり親しいとは言えない女の子と僕は一緒に歩いている。互いにあまり近寄ることなく、それぞれ屋台を横目で見たり石畳の感触を楽しんで歩く。
 橋のような場所で僕は立ち止まり、欄干から身を乗り出すと、五メートルほど下のフロアは大きな会議室のようになっていて、大勢の年輩の人々が会話をしているのが見える。そこはとても静かで、灯りもほとんどない。
 僕は彼女と一緒に階段を降りていって、小声で話す彼らの脇を通り書庫へ向かう。そこには誰もいない。奥の方までいくとざわめきも聞こえなくなる。本棚に並んでいるのはどれもS社から出版された詩集で、かなり古いもののようだ。どの本もとても厚くて、取り出してみるとほとんど立方体に近いようなものもある。
 詩集が好きらしい彼女は色々な本を手に取り眺めている。棚と棚に挟まれた通路はとても狭いので、立ち止まっている彼女の後ろを通ろうとすると体が触れそうになる。しゃがみこんで本を読んでいるその後ろ姿に、少しどきどきしながら僕は手を伸ばす。ほんの少し指で押しただけだったのに、彼女は飛び上がってのけぞり短い悲鳴をあげる。振り返った目には驚きが溢れていたが、ひどく嫌悪されたわけではないようなのでほっとする。そして同時に、僕は彼女のことがとても好きなのだと自覚する。

詩「噤む朱」

噤む朱

「白い花」/作 セシルへの交換詩です

その朱は苦かった
その朱いつぼみは苦かった

食べ物じゃないから
にがいと云いながら食むわたしに
あの子は云った

例年通り
花の季節の次には光の宴の皐月
そして雨期が訪れ大地は湿り
私は時を遡る
記憶の波が繰り返しうねり
ひとりいまも思うことは
あの朱は苦かった
その朱い花びらは苦かった

見せ物じゃないから

そう云ったあの子は
月日の流れを厭がって
いってしまった
ひとりいまも思うことは
花はやっぱり苦かった

そればかりで

奪って 食んで 毟って
飲んで 触れて 抱いて

そして噤んで

犯した私への復讐があの苦さだったのだとしたら
なんとささやかな抵抗だろう

「口紅つけてたの」
ずっとあとになって私は訊いた
あの子は否定してこう云った
「口紅なんかじゃない。
ただのリップクリーム」

リップクリーム

軽い響きだ
と思ってみるがすぐに打ち消す
とても苦かった
口紅じゃないなんて云ったくせに
苦くて朱が鮮やかで
やっぱり苦くて

あの子が厭いながらも剥がし脱がされる表皮の
ささやかな抵抗があの朱だったとしたら
なんとひそやかでいじらしい話だろう

いま私はひとり
あの子はもういない
月日の流れと繰り返す脱皮を厭うたあの子は
いまはもういない

詩「妻へ(1)」

焼かれながらも人は、そこに希望があればついてくる*1


──

 私の妻はとても醜い。
 どう醜いのか、それを上手く話すことはできないのだが、醜いと思わずにはいられない。そのことが私には辛い。

 だから妻の醜さを、私は誰かに、下手なりに話さなくてはいけないのだと思う。
 けれど話す相手などこれといっていないから、せめて拙くとも書きとめておきたいと願い、こうして書きはじめるものである。

 *

 妻は、私に対していつも従順な態度で、向こうから喋りかけてくることといえば、夕飯は何が良いかだの、今日はもう寝るかだの、こちらを窺う言葉ばかりである。それがひどく醜い。

 かつてはそれなりに熱中した色々な博打も、この妻と同棲するようになってからはほとんど興味を失ってしまった。
 出かけようと支度をしていても、玄関で靴を履いている頃には何だか萎えてしまう。知らず知らずのうちに、外へ向かおうとする熱を根こそぎ奪われてしまうのだ。
 醜い人間は、たとえ何もせずに静かに佇んでいても、その存在が剛力である。私のような脆弱者のふらついた心根などはすぐに握り潰し、凍らせてしまうのだ。

 元々、勝っても負けてもどうでも良い博打であったのは事実だ。たしかに勝ちの先にはささやかな利益があり、負けの先にはおぼろげな破滅が見え隠れしている。けれど博打を打ちながらも私は、利益にも破滅にもそれほど興味がなかった。

 勝っていつもより美味い酒を飲めば気分の良いような気もするし、負けてひもじい思いをすれば悔しいような気もする。しかしそれは本当にそう思っているというより、勝者とはそういうもの、敗者とはそういうものというふうに、照れ笑いを浮かべながら役を演じているような感覚でしかなかった。

 つまり私は臆病だったのだ。
 生来の自分というもの、そこから自然に湧きあがる感情を、自身に対しても他者に対しても堂々と示すことは恐ろしかった。
 それは幼少時代からずっと代謝を繰り返して、心細胞のどの一片にもきちんと織り込まれた私の性質であって、体を丸ごと取りかえでもしなければ、決して覆らないものだったのだ。

 *

 同棲して二年目の春、私が板場と呼ばれる大きな賭場に出向いた時にも、妻は引き止めもせず、ただ「いってらっしゃい」と言って私を見送ったのだった。
 この時賭けていたのは、妻と私の命だった。


      (2)へ続く

*1:福本伸行『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』より

Quiginu#5電話

電話が鳴る度に少しずつずれる。
夜は長いのに
窓は黒いのに
誰もいないのに
窓ガラスの向こう薄っぺらい
チェシャーキャットがわらってる

──お客様にお知らせでございます。現在お客様のご使用の携帯電話から放射性物質が検出されました。ZOLLO700系をお使いの方は、いち、をZOLLO600C系をお使いの方は、に、を、それ以外の方は、さん、を。繰り返しこの説明をお聴きになる場合は、シャープ、を、押して下さい。

詩「白い月」

白い月

海の向こうで戦争があった
戦火は僕の国になんの被害ももたらさなかったけれど
君の事を毟っていった

果てなんて言葉 無意味なほど
切れ間なく続くあの空
陶酔に沈む意識のような白い月が
清く明るい幻想を一瞬 見せてくれていた

君の脳髄を銃弾が駆け抜けたのは
きっとそんな瞬間だろう

銃声は君の意識を連れ
宇宙へと辿り着いたに違いない

今夜もまた 白い月が昇る
一瞬の甘い夢幻を
僕の心にもたらすだろう

君の視線を感じるよ
君の心を すぐ傍に
あの白い 強い 月明かりから

だからほら 僕は今日も元気だよ

page.04〜チェコ様〜

おひさしぶりです。随分と御無沙汰してしまい、すみません。
桜はいいですね。咲いている間はもちろん、散りゆく姿も散った後も様になるように思います。春の公園、夕暮れと桜なんて素敵じゃないですか。家の近くにないせいか、単に私が出不精なせいか、公園なんて随分と行っていません。好きなのですが、子供たちがいる中で一人ブランコに乗るのは、何とも恥ずかしいやら大人げないやら…。(ブランコが好きなんです)


御無沙汰しているうちに春から初夏へと季節もか移ろいましたが、関西もようやく梅雨入りだそうで、雨の日が続きそうですね。雨の日特有の湿気はいまひとつ好きにはなれませんが、雨に濡れたものを眺めているのはとても好きです。普段にも増して色鮮やかでみずみずしく、はっとさせられます。梅雨の緑はいいですね。


髪の長い時期の短い私にとって、リボンはどうも馴染みの薄いもののひとつですが、リボンは少女の特権というイメージがあります。どこか甘く、ひらひらと掴みどころのない感じが少女を彷彿とさせるように思います。過ぎたからこそ分かることですが、子供の純粋さは大人には太刀打ちできない何かがあると思います。大人になるにつれて失っていってしまうものだからでしょうか。できれば心の奥、底のほうにそっとしまっておきたいものです。
名前を考えてみました。「薄桜」これは色の名前、それも和名のひとつでまさしく桜の花弁のようにはかなく美しい色です。どうしても薄桃色、というイメージが頭から離れなくて色の名前を拝借しました。名前というと、和名が好きで、色の名前から花、鉱石など、自然にまつわるものの和名が好きです。横文字やカタカナよりもどこか神秘的でロマンチックな感じがしませんか。


緑がうつくしい季節。そろそろ写真を撮りに行きたい今日この頃です。次は「自然」について何かお聞かせ願いたく。
それでは、また。



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